岡本公三とは何者

★岡本公三とは

 岡本公三は1947年熊本に生まれた。いわゆる団塊の世代で、当時、全国の大学で闘われていた全共闘運動に参加していました。が、その後個別の学園闘争から闘いの場をアラブ・パレスチナへ求め海外へ渡りました。

 そして1972年5月30日、イスラエル・リッダ空港(現ベングリオン空港)への決死作戦を奥平剛士、安田安之の日本人3名とPFLP(パレスチナ解放人民戦線)との共同軍事行動として闘った。奥平と安田はその場で死亡、岡本公三はイスラエル軍に囚われの身となった。

   イスラエル軍に囚われた岡本公三は、軍事法廷で終身刑を宣告され、イスラエル軍保安部の想像を絶する報復と情報収集のための攻撃に晒され続けました。強制自白を引き出すための拷問は国際条約を無視した激しさで、なおかつ長期に渡る拘禁生活のために、彼の心身は破壊され統合失調症の病状を呈しました1985年、イスラエル国家の安全をまもると言う口実で、近隣諸国にある難民キャンプとパレスチナ抵抗勢力に空爆を続けていたイスラエル軍機が撃墜され、3人のパイロットが捕虜にされました。それを機に、岡本公三の釈放を拒み続けて来たイスラエルは、国際赤十字の仲介でパレスチナの獄中者とパイロットの「捕虜交換」に応じ、岡本公三をはじめ多数のパレスチナ・アラブの戦士たちはレバノンにもどりました。       (写真は1972年の岡本公三)

 

★レバノンでの岡本公三と政治亡命

イスラエルの刑務所で13年間心身ともに傷つけられた岡本公三は、仲間たちと、リハビリ生活を始めました。

しかし、1997年、生活を共にしていた日本赤軍5人が日本政府の意向を受けたレバノン国家保安局に逮捕されました。岡本公三を除く4人は強制送還される事態になりましたが、その中で彼だけは、レバノン民衆の送還阻止の抗議行動と法曹界の尽力で一事不再理を法的根拠とし、また、戦争捕虜の交換で釈放されたことが法的に確認され、レバノン当局に「アラブの解放闘争の英雄」として正式に政治亡命が認められ、今日に至っています。

現在の彼のリハビリ療養生活は、機会あるごとにレバノン政府に圧力をかけている日本政府の動きに脅かされています。この動きを注視し、日本政府が「身柄拘束」の挙に出ないように監視していかなくてはなりません。

 

★岡本公三の現状

現在、彼が滞在するレバノンでは、隣接するシリア内戦激化の影響で、「IS」勢力が避難民と共に流入し、レバノン政府軍、「神の党」(ホズボッラー)部隊、そして様々な諸組織との間で戦闘が頻発しています。そしてそれにつけ入るようにイスラエルのたび重なるガザ攻撃と虐殺行動があり、「神の党」(ホズボッラー)攻撃の可能性が噂され、緊張が高まっています。

 その様な情勢下でも、PFLPの同志的な協働者たちの支援で、彼の闘病・生活体制は維持されています。

 その彼の安全を支えているのは、日本人三戦士たちのリッダ闘争から根付いてきた日本とアラブ民衆の揺るぎない連帯意識です。

 彼の闘病・生活体制が維持できているもう一つの要素は、そのアラブの民衆意識を反映してレバノン政府が初めて認めた「政治亡命」を維持する立場を継続しているからです。

 集会や友人に宛てたメッセージでも、岡本公三が元気に過ごしていることが良く分かります。衛星放送でニュースや相撲を見たり、日本の政治動向や社会情勢も把握しています。

その闘病・生活の介助協働者とはアラビア語での意思疎通になり、極めて寡黙な日常を過ごしていると言えます。日本語による会話や生活の機微を共にする仲間が必要とされていることに、今も変わりはありません。それは精神疾患を改善する大きなカギとなるからです。

2ヶ月に一度の定期健診などで、統合失調症の症状や他の病についての治療は、現地の医師を含めたサポート体制が確立されています。最も大切な闘病・生活の介助協働者との関係も、担当者の人間的な誠実さで信頼関係が築かれ安定しています。

 

今、岡本さんの闘病・生活を維持するために問われているのは

●生活維持のための費用と物資購入の費用

●ボランティアとしての訪問団

●日本政府の姑息な岡本さんの送還要求の阻止      です。

 

世界はいま、多くの大儀ある「民衆の闘い」「民族の闘い」を「テロリズム」として一刀両断にしています。岡本さんが担ったリッダ闘争もまた、しかりです。今一度闘いの全貌を考えてみませんか。